小さなダムの大きな闘い

石木ダム建設阻止闘争の経過 山下弘文

「この旗は、権力を国民大衆が取り囲んでいる。日の丸は権力が国民大衆を囲みこんでいる。やがて、白丸はだんだんと小さくなるだろう。」
1960年、あの安保闘争の激動期をはさみ松原ダム下筌(しもうけ)ダム建設に反対し、蜂の巣城攻防戦に、晩年の13年間、国家権力を相手に戦いをいどんだ室原知幸老がかかげた室原王国旗である。
この「赤地に白丸」の旗が、いま、石木ダム建設予定地の川原郷入口にへんぽんとひるがえっている。
ここは、東彼杵郡川棚町川春郷である。世帯数45戸のうち37戸が湖底に沈むこの地区の入り口に、直径約30センチ、高さ7、8メートルの杉丸太4本を組んだ団結の塔の上に、この王国旗がひるがえっている。
路上には、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三ザルの大きな絵がかかげられ、石木ダム建設絶対反対の看板が打ちつけられている。
1982年4月9日、長崎県は、ダム建設予定地測量のため、土地収用法第11条による強制測量を実施したのである。
1959年1月8日、松原、下筌ダム建設に際して、伝家の宝刀として抜かれて以来、実に23年ぶりの暴挙であった。この日から、反対同盟の連日にわたる苦闘が始まったのである。
以下、これまでの闘いの経過を報告しよう。

そこに「ふるさと」があるから

「先祖は、タビも履かず、はだしで働いて求めた土地です。この土地ば、わたしたちの代で水の底に沈めることはできまっせん。ご先祖様に申し訳がたたんですたい。この土地は最高です。この土地ば離りゅうちゃ思いまっせん」
「わたしゃ、土地は持ちまっせんじょん、土地ば離りゅうちゃ思いまっせん。こやん隣人愛のすばらしかとかぁ-、ほかになかって思うとります。日本一のこん部落ば、そのまま守りたかです。この土地に骨ば埋みゅうて思うとります。」
1980年3月14日、県、町当局の悪らつな懐柔策、切り崩しの前に、次々に条件派に転身していった「石木ダム建設絶対反対同盟」の幹部に見切りをつけ、部落全体が完全に水没する川原郷の人々が、新たに「ダム建設絶対反対」をスローガンに、反対同盟の再結集をはかった時のおばあちゃん達の発言である。
国鉄川棚駅から車で約10分、川棚川をさかのぼった支流石木川の上流に川原、木場、岩屋の三部落が、ひっそりとしたたたずまいを見せている。豊かな田園と山林に囲まれ、ぼう大なホタルが飛びかう清流石木川、背後には県立公園多良岳がせまり、虚空蔵山がそびえている静かな山村である。
ダム建設によって、川原橋と勘蔵橋の二つの石橋は水没する。また、「199段の階段を一夜のうちに鬼が築いた」という岩屋権現がある。毎年、秋分の前夜、ここで部落の青年達による奉納演芸会=献燈祭が催される。自然を取り入れたその舞台装置と共に、力のはいった演技は、遠く波佐見、東彼杵、嬉野、佐世保の人々の人気を呼んでいる。
「暮らしは貧しかった。それでも私たちはふるさとを守ってきました。これからも守りたい」何故なら「そこに”ふるさと”があるから」と若者はいう。
新たな「石木ダム建設絶対反対同盟」の中心になったのは、79年10月段階から川原部落の青年層が自発的に結成し、事実上、反対運動の行動をになっている「ダムからふるさとを守る会」の若者たちである。
「ふるさとを守る会」に結集しているのは、代表格である電気工事を仕事としている岩下和雄さん(35歳)を中心に、東彼地区労傘下の川棚町職、動労、東芝セラミックスなどの若手組合員が多い。
最近、長崎県内でもダム建設に対する反対の声や住民団体が生まれてきつつある。その代表的なものが石木ダムであり、この他、大村市の「萱瀬ダム嵩揚絶対反対期成同盟」、さらに小長井町の轟ダム建設に反対する漁協の運動などがある。
水不足、水資源開発を大義名分に、県内でも1985年までに、実に77ヶ所のダム建設が計画、予定されているといわれている。列島改造案によると、全国1千百ヶ所以上の計画がある。
ダム建設にあたっては、水没する地域の人々の悲劇があると同時に、建設後の上・下流域住民に対する恐るべき「ダム災害」の危険や過疎化がおそいかかってくる。
ダム建設予定地の住民が、反対運動に立ち上がるのは当然といえよう。次に、ダム計画の概要と前期の反対運動についてみることにしよう。

石木ダム計画の概要と反対運動

石木ダムは、川棚川水系石木川上流の川原地区に、多目的ダムとして計画されたものである。ダムサイト予定地は、川原中心部から北東へ約3.5キロメートル、ダムは重力式コンクリートダムであり、堤高56.5メートル、堤頂長473メートル、集水面積9.3平方メートル、総貯水量674万立方メートル、有効貯水量644万立方メートルとなっている。取水総量は1日6万9千トンであり、そのうち、佐世保市に6万トンの水を送る計画であり、このうち水源がない佐世保針尾工業団地へ2万2千トン、上水道として3万8千トン。地元川棚町には日量7千トン、かんがい用水として3千トンの取水が計画されている。総工費200億円という。
このダム建設によって、ダムサイトから上流の集落である川原45戸中37戸、岩屋30戸中22戸、木場48戸中5戸、計64戸が完全に水没する。また、水田32.1ヘクタール、畑10.5ヘクタール、山林11.8ヘクタールも水没、小規模のダムとしては、その犠牲は大きいといわざるを得ない。
石木ダム建設計画の裏には「ふるさとを守る会」が、いみじくも指摘しているように1972年から78年までの期間に県が造成した126万9千平方メートルにおよぶ針尾工業団地造成があったのである。
工業団地への水の供給、工業団地ができれば人口が増え、水の需要が増えるであろうということを見込んだ、いってみれば地元住民や川棚町発展のために計画されたものではないのである。
長崎県経済部工業立地課はいう「針尾団地はナガサキ・テクノポリス(高度技術集積都市)計画の柱。水源はとりあえず地下水に頼るとしても、最終的には石木ダムしかない。ダムとテクノポリスは共同運命体」
佐世保市もまた「七つの貯水池が満水になっても、人口(55年度23万5千人)の2ヶ月しかない。安定供給にはいまの2倍、4ヶ月分の貯水が必要」という。
これに対し、反対同盟の古老川原志郎さん(60歳)は「都市にだけ都合のよい論理。開発による犠牲の押しつけ」といい「佐世保の水は、佐世保域内で確保するのが筋。自然の大和水源を守ってきたからこそ、石木川の流れがある。われわれにも生きる権利があり、土地を子孫に残す責任がある。佐世保には川棚川の水を送っており、貸しはあっても、借りはない」と反論。「水が足りないのではなく、行政は新規水源探しに真剣さがない」と指摘している。
静郷川原地区に、ダム建設が持ちあがったのは、いまから20年前の1962年であった。この年、県は町と地元に無断でダム建設を目的に現地調査、測量を行ったが、地元住民は直ちに町に抗議、町もこれを受けて県に抗議し、調査は中止された。
それから10年近くたった1971年12月、県は地元に石木ダム建設のための予備調査を依頼、翌72年7月29日、予備調査に関する覚書が交換され、ダム建設予定地内十数のヶ所ボーリング調査、横杭調査、地震探査などが実施された。
この時の覚書きには、県と町の二通あり、県と地元の覚書き第4条は、県が調査の結果、建設の必要が生じたときは、改めて三部落と協議の上、書面による同意を受けた後、着手するものとする。とあり、町との覚書きの第1条は、石木川の河川調査に関して三部落長崎県土木部長との間に取り交わされた覚書きは、あくまで地元民の理解の上に作業が進められることを基調にするものであるから、若し長崎県が覚書きの精神に反し独断専行或いは強制執行等の行為に出た場合は、川棚町竹村寅次郎町長(当時)は総力を挙げて反対し作業を阻止する行動を約束する。とあった。
この覚え書きが、今回の県の強制測量にあたって大きな問題になったのは当然のことであった。県は、この覚書きについて、言を左右にして認めようとしなかったのである。
この時の調査に対して、反対同盟は「何故あの時の予備調査を認めたのか・・・」と、くやんだが。その時の調査結果は1974年8月に、久保知事名で「石木川の河川開発調査結果について」という文書によって、「一部に脆弱部がみられ、透水性についても一部に大きい陶酔箇所等が見受けられるが、ダム建設は可能」と報告され、11月には地元に対する初めての説明会が開催されるなど、静かだった石木地区はダム問題でゆれだした。
同年12月、地元住民は町長の仲介により、三部落総代が県知事にダム建設反対の陳情を行なった。
1975年10月、地元三部落は「石木ダム建設絶対反対同盟」を結成、川崎勝氏を委員長に選出、県へ抗議、計画の白紙撤回を求めた。この年地元の労働団体である東彼地区労は定期大会の中で、反対闘争の支援を決議したが、地元反対同盟の受け入れ体制がなく、宙に浮いた状態となった。
77年の暮れになると県職員、町助役、職員などが積極的に戸別訪問を開始したが、これに対し反対同盟は「県職員面会拒否」で対処していった。
78年8月、川棚町は臨時町議会を開催、町議会水総合対策委員会の報告を了承、「ダム建設の必要性を認める」との議会決議を行なった。
この決議に力を得た県、町当局は、従来にもましての戸別訪問を行なったが、川原地区の青年部を中心とする反対同盟は「見ざる、言わざる、聞かざる」というユニークな戦術をあみだし、対処していった。
79年中頃になると、久保知事を先頭に地元に対する説得活動は強引をきわめ、圧力行政を露骨に表してきた。また、町当局や県が地元有力者へ酒食のもてなしを行っての切りくずし戦術をとっていることなども表面化していった。
79年12月に開催された石木ダム建設絶対反対同盟の委員会では、町長列席の上、町建設課の一瀬参事の手になる「石木ダム雑感」といういってみれば地元住民を恫喝(どうかつ)するが如き町当局の考え方が説明され、さらに加えて、地元住民がこれ以上、反対を続けると「土地収用法」が適用され、元も子もなくしてしまうぞ、という悪らつなおどしをかっけてきた。
このことに対して、12月町議会でも問題となり、社会党町議を中心に追及が行なわれるなど、同盟員の激しい反発を買うと同時に、川崎勝委員長を中心とする反対派幹部の条件派へのくらがえに大きな力を発揮してきた。
さらに、県は石木郷倉本に「石木ダム建設事務所」を設置し、常駐職員をおいて説得、切りくずし対策にやっきとなっていった。
こうした中で、反対派の強い川原地区の数名の青年部を中心に「ダムからふるさとを守る会」が結成され、独自の活動が始まっていったのである。

新たな運動の出発

1980年に入ると「ふるさとを守る会」の活動は活発化していった。会報「住民運動の声」が発刊され、ダム関係地区のみならず川棚町にも配布されるようになっていった。
また、これまでの学習を集大成した「ふるさとを守ろう-水危機論のうらがわ-」というダム反対の論理を盛り込んだ立派なパンフを出版、広く川棚町民に配布する活動も行なわれた。
さらに、守る会は反対運動を強化するためには、県内の各種住民団体との連帯が絶対的な条件であるとし、住民運動推進懇話会との連絡を強め、一方、労働組合、革新政党との連帯強化を求め、東彼地区労の労働者との交流も進めていった。
東彼地区労は、幹事会の中で守る会に対する支援体制について確認、以後、各種の行動に地区労も積極的に取り組むようになった。
こうした守る会の活動に対して、反対同盟は「守る会の活動は住民運動からかけ離れ、イデオロギー色が強くなって、ついていけない」としついに80年3月10日、同盟総会において賛成48、反対26で反対同盟を解散することを決定した。
ここにいたって守る会は、川原地区23戸をもって新たに「石木ダム建設絶対反対同盟」を結成したのである。
一方、川崎勝前委員長を中心とする人々は、4月4日、81戸を結集し「石木ダム対策協議会」を結成。ここに運動は完全に分裂したのである。
その後、条件派の対策協議会は、ダム視察の補助を受け、各地のダムを視察すると共に、県とダム建設についての工事計画、補償概要説明を受けたが、反対同盟は県との話し合いを一切拒否、徹底抗戦のかまえをくずさなかった。さらに、ダムや水問題の全国集会参加や各地区のダム反対住民との交流を深めていき、学習活動を強化していった。
1981年に入ると町と対策協議会は、測量調査の対応について話し合いに入るなど、反対といいながら、実質的には建設のための具体的な話し合いを始めていた。
こうした対策協議会の幹部の対応の仕方に反発を強めていた木場郷会員48名中33名は5月22日、対策協議会を脱退、反対同盟に加盟、28日、川原郷住民と共にダム建設絶対反対決起集会を開催した。
ここにいたって反対同盟は61世帯、対策協45世帯と、反対同盟が多数を占めることになった。
少数派となった対策協は、ダム問題に対応するため、今後、県と話し合いをしていくことを決議。これを受けて県は対策協地権者に対し、測量実施についての協力要請のための個別訪問を始めた。
一方、反対同盟は、県との接触は一切せず、ダム、水問題などの学習会を開催するなど、理論武装につとめると共に、県内住民団体、地区労などとの連帯強化につとめていった。
1982年3月、3期12年続いた久保勘一長崎県政は、新知事高田勇県政へとバトンタッチされた。
「対話の県政」をスローガンに、圧勝をとげた久保知事は、一時期、県民から一定の好感を持って迎えられたが、後半になると南総事業や上五島洋上貯油センター建設計画などに象徴されるように、大型開発事業を「権力と金力」、なかんずく、札束攻勢という手段で計画推進にあたってきた。
これに対し、新しく誕生したばかりの高田県政は、県議会54議席中、自民党が31議席を占める保守絶対安定という議会構成を背景に、金力もさることながら、権力を振りかざしての官僚的県政を進めだした。
その典型的な現れが、いま、長崎県最大の課題露なった石木ダム建設に対する土地収用法第11条の発動による、機動隊導入ををともなった強制測量に見られるといえよう。
反対同盟は、ここに、いやおうなく全力を集中して闘いをいどまざるを得なくなったのである。

強制測量を実力阻止

82年4月2日、高田知事は殿下の宝刀といわれている土地収用法第11条に基づく立入りを公告、川棚町もこれを受理した。
県の言い分は次のようなものであった。
「50年度から着工予算が付いたが、毎年繰り越し続けていた。当初の54年度完成見込みが大幅に遅れ、基本調査ができなければ、同意を得ている地権者に対して移転など具体的説明もできない。強制測量は2月末まで延期し、話し合いの申し入れを待ったが、反対同盟は県のテーブルにつかなかった。
これに対し反対同盟は、徹底抗議の構えを取り、一方、県に対して話し合いの意思ありと通告、県の出方を見守ることにした。
事態を重視した社会党川棚支部は、臨時議会開催を要求、4月5日、町議6名から出された「石木ダム建設に伴う強制測量に関する意見書」の提出について審議、投票の結果、反対14、賛成6で否決、ここに町は事実上、強制測量を認めたのである。
この日から、反対同盟は町役場前に座り込みを開始した。
6日夜、反対同盟は初めて県との話し合いを持ったが、「測量に同意してほしい」と一方的に申し出る県と「強制立入調査を撤回し、出発点から話をしよう」という同盟の主張は噛み合わず、物別れに終わった。
8日、労働団体である県労評は対県交渉を行い「反対同盟が内容証明付きで県あてに話し合いの意見を通告している中で公告し、暴挙だ。しかも警察機動隊を導入し、測量を強行しようとする県の姿勢は住民無視で、絶対に認められない」と抗議した。また、9日の強制測量に」対し、現地東彼地区労を中心に組合員200名の緊急動員を要請、実力阻止の体制をとった。
明けて9日、時折り、みぞれまじりの冷たい雨が降る、4月とは思えない寒い朝であったが、川原地区の広場には「石木ダム建設絶対反対」のはち巻きをしめた住民が、午前7時頃から続々と結集してきた。
午前8時、広場に結集した300名は、県労評の宣伝カーを先頭に阻止線までデモ行進、デモの先頭には「孫のため、ひ孫のためにも、がんばらねば・・・」と、高齢で足の不自由な谷口スエさん(80歳)、中尾ハルさん(72歳)を乗せたリヤカー、続いて数珠を手にした婦人部隊、青年部隊、支援の労組員と続く。参加した住民のほとんどがデモもピケも初めて。しかし、先頭は旗竿を横に、力強い、整然としたデモ行進である。静かな山村に「ダム反対!測量阻止!」のシュプレヒコールがこだまする。「石木ダム反対の歌」がひびきわたる。
支援に来た組合員が「デモはこうなけりゃ-、学ばされます」と語る。ダム建設予定地600メートル手前の阻止線に到着した時には阻止隊は約500名にふくれあがっていた。この中には、この日、対策協を脱退する決意を固めデモに参加した3家族があった。
午前9時、湯浅昭県北振興局長を先頭にした測量隊24人が到着、たちまち激しい阻止行動が開始された。
「帰れ!帰れ!」のシュプレヒコール、先頭の婦人部隊は数珠を持つ手を合せ、合掌、涙ながらの抗議が続く。ついに冷たい雨にぬれている道路に正座しての抗議となった。座り込んでいる部隊の数十センチそばをジャリを満載したダンプカーが次々に走り抜ける。
安村県北振興局建設部長がハンドマイクで「土地収用法第11条に基づく調査、測量です。妨害しないでください」と通告するが、抗議の声にかき消され弱々しい。
時折り激しくみぞれが降りしきる。それでも婦人部隊は一歩もしりぞかない。「死んでも先祖の土地は渡さん」と強い信念が浮かんでいる。
突然、宣伝カーから独経の声があがった。この日、支援のためにかけつけてきた「橘湾を守る会」三角宣之さんである。三角さんは、川原地区のほとんどの人が信仰している真宗大谷派のお坊さんでもある。反対同盟の結束が固い大きな原因の一つは、温かい隣人愛と真宗大谷派の信心にある。
午前10時、機動隊百数十名を待機させての強制測量であったが、ついに県は測量をあきらめた。振興局長を先頭に引揚げだした。デモ隊から一斉に声があがる。「もう、二度と来るな!」激しい抗議の声とシュプレヒコールがおいかける。ついに測量は阻止された。県は午後からも、と考えていたが、午後1時45分、この日の測量を断念した。
反対同盟は、県側を追い返したあと、川原広場で勝利集会を開いた。県労評、地区労、住民団体の代表が次々に劇れのあいさつ、「団結で阻止した。今後とも勝利まで闘い抜こう!」と気勢をあげた。
集会の後、同盟員は川原公民館に集まり、勝利の酒盛りが始まった。それぞれの家族から持ちよった自慢の山菜料理をさかなに、勝利の歌声はいつまでも続いた。
翌日の各紙は大見出しで住民側の勝利を報じていた。「十図を手に涙の抗議、”わしらの故郷渡さぬ”反対住民母ちゃんパワー結集」「”死んでも土地渡さん”住民反対で中止」「怒号と無言と、数珠持ち涙の住民ら」、テレビをはじめ、すべてのマスコミが反対同盟の側にあった。
川棚町民の世論も急激に変わっていった。テレビを見てかけつける町民、あっという間に百数十本の陣中見舞い、カンパが集まってきたのである。自由民主党長崎県連合会村崎精衛総務も「ダム建設は絶対に許せん。われわれも有効な手を打つ」と語った。

ついに機動隊導入

県は、12日にも、再度強制測量に踏み切る予定だったが、マスコミを中心とする県民世論の動きに、とまどいを見せ、話し合いの姿勢を見せざるを得なかった。
4月14日、正式の話し合いのための、"準備の話し合い”がもたれた。しかし、支援者などの出席者の条件をめぐって対立、流会となった。続いて20日の事前協議も「測量中止が条件」とする反対同盟の意見と平行線をたどった。
26日、三村副知事が出席、これも物別れ。ついに5月14日夜、高田知事が出席し深夜まで話し合いが続いたが「測量調査と並行して話し合いをしたい」と主張する高田知事、これに対し「県は話し合いを一方的に打ち切らない。話し合いの間は測量を中止する」とする反対同盟の主張が噛み合わず、激しい応酬の末、物別れに終わった。
高田知事は別れぎわに「みなさんの気持はよくわかった。持ち帰って検討する」と言って別れたが、知事からの何の返答もないまま、5月21日の機動隊導入を併った強制測量の実施となった。
この日の測量実施を反対同盟が知ったのは20日、夜おそくのテレビであり、各紙が「抜き打ち強制測量」と報じたように、まさに、反対同盟の虚を突いた暴挙であった。
この日、反対同盟は家族ぐるみの動員をおこない、徹底的に阻止行動を展開した。この日の行動には、自発的に参加した37名の小・中学生も加わっていた。
午前8時30分、室原王国旗を先頭に阻止線に進出。9時40分、測量隊が出発したとの情報が入り緊張が広がる。ついに測量隊が到着、激しいもみ合いとなった。座り込みが始まる。大人たちのシュプレヒコールにまじって「カエレ!カエレ!」子供たちの鋭い抗議の声が飛ぶ。j10時10分、県警機動隊指揮車が前面に出た。ついに実力行使、”ごぼう抜き”がはじまった。この日出動した機動隊150名、怒号と悲鳴がひびきわたる。
老人も、婦人も子供たちも、みさかいなく、ようしゃのないごぼう抜きである。機動隊にだきかかえられた子供たちは、泣きながら手足でけり、噛みついて抵抗する。婦人の首根っこをおさえ、地面におさえつけて引き抜いていく。お老よりが「オレは死ぬまで闘うぞ!」と白髪をふりみだして抗議する。
引き抜かれた同盟員は、後にまわって再び座り込む。子供たちは機動隊の足もとをすり抜けて座り込む。ガケをよじのぼり、川を渡り、麦畑を駆け抜けて次々に抵抗の拠点を作りだしていく。11日45分、ついに測量隊は第一測量地点に到着、同盟員は地面にはい、手を取り合って抵抗するが、ついに排除され、はじめてのクイが打ち込まれた。
「土地にクイは打ち込まれても、心にクイは打ち込まれない。」子供たちも含め、反対同盟は怒りに身をふるわせた。「われわれが、どんな悪いことをしたというのか・・・」「われわれは虫けらじゃない-」。
この日、村人たちの最も大切なものが無残にも破壊された。「土地の和」が徹底的に破壊されたのである。
この日から23日、24日、26日、31日、6月1日、2日と七次にわたる強制測量が実施された。この間、反対同盟は徹底的に抵抗した。入院患者2名を含む数十名の負傷者が出た。
子供たちは24日まで闘いに参加した。このことは教育界にも大きな波紋をよんだ。このことを知った長崎大学教育学部学生有志がかけつけ、公民館で自主学習も行なわれた。「お父さんたちが頑張っているのに、ぼくたち家族が協力せん方がおかしい。学校へ行くより、ふるさとをまもる方が大事です」という。テレビを見た佐賀県の小学生との文通もはじまっている。
県のこのような暴挙に対し、世論は一斉に反発した。「いま、なぜ強制測量、浸透せぬ県の開発論理」「募る双方の不信感、結論やはり話し合いで」「打開の展望開けず」「県不信の感情増幅、前途険しい高田県政」と批判、こんな状況に追い込んだ県、町の行政側の責任は重いと各紙が報道した。
県民の「声」も「土地を一度か二度、知事が出向き、時間がないからといって、不意に測量に出かけたというのでは、そしりをまぬかれまい。・・・知事は代人でなく百度でも二百度でも出かけて、その交渉にあたってよかったはずである」という意見に代表されるように、ほとんどが反対同盟に対し同情的であった。
また、佐世保市の桟市長はなぜ現地に出向いて頭を下げないのか」「一発ビンタをかましてから、さあ、話し合うもないみんだ」という意見も多い。自民党の初村誠一県議会議長ですら機動隊導入の前に礼を尽くすべきだ。それを道交法違反で排除するなんて何ちゅうこっかい」と語気鋭く語ったという。
高田知事はいま、土地収用法第11条にもとづく私有地内測量の法的手続きを進めようとしている。7月中旬から第二次測量に入ろうというかまえを見せ、一方では、第三者の仲立ちによって話し合いの糸口をつかもうとしている。
しかし、水資源公団草木ダム建設所長荒木正夫氏がいみじくも報告しているように「ダムの用地交渉に臨んで強制測量、強制代採等の無理押しは非常の場合を除き絶対に禁物である。多数の相手に対して土地収用法はあてにできぬ・・・殿下の宝刀は抜かない所に値打ちがある」という言葉が正しいとすれば、高田県政は、その第一歩からあやまったといってよいだろう。高田県政は、誕生早々から不安な道を走りはじめている。

(このレポートは月刊総評7月号に載せたものに加筆訂正したものである 1982年6月20日)