今日の長崎新聞「論説」を読んで、思わず大きく頷きました。
小出久論説委員は、
県は「工事再開に司法のお墨付きを得た」ことになるが、「決して強引にことを進めてはならない」「今ここで立ち止まり、事業の進め方を再検討すべきだ」
と釘をさしています。
裁判所に対しては、
仮処分という措置には、「著しい損害」や「緊急の必要性」が求められるが、地権者等の暮らしが「平穏」といえる状況か?決してそうではない、むしろ「長期間にわたって平穏な生活を奪われている」
と指摘しています。
全くその通りです。
毎日毎日、家事や農作業もそっちのけで阻止行動に出ていかなければならない。
真夏の炎天下でも、マスクやサングラスで顔を隠して立たねばならない。
雨の日も雪の日も休むわけにはいかない。
土日には、全国各地から励ましに来てくれる支援者を手料理で饗さねばならない。
地域には、しょっちゅうマスコミがやってきて、カメラがまわっている。
物理的にも精神的にも休む暇のない、「平穏」にはほど遠い状況、
それがここ数年の川原の日常です。
そういうことを地裁佐世保支部は、あまりにも知ら無さ過ぎる!
知ろうとしなかった…。
「差し迫った状況にない」という判断が、これまで様々な不幸を招いてきました。
ストーカー被害者の訴えを、「差し迫った状況にない」と判断して保護しなかったために殺された女性たちが何人もいます。
いじめの状況を「差し迫った状況にない」と感じて教師が真剣に対応しなかった結果、いじめがエスカレートし、自殺に追い込まれた子どもたちがたくさんいます。
超長時間労働による肉体的・精神的疲労が「差し迫った状況」だと誰かが気づいて、むりやり会社を休ませていたら、過労死せずに済んだケースは沢山あると思います。
当事者にとって本当に差し迫った状況かどうかを他人が理解するには、書類だけじゃダメなんです。
地裁の裁判官のように、現地に来て、自分の目で見て、耳で聴くのが一番です。
それができなければ、せめて地権者本人の訴えを聞いてほしかった。
たぶん仮処分という裁判の仕組みの中では、そんなことはできないのでしょうが。
裁判制度を何も知らない者の戯言かもしれません。
でも、「差し迫った状況にはない」との言葉に唖然として、黙って通り過ぎることはできませんでした。
地権者の内の4世帯の農地は既に強制収用されてしまったのです。
明け渡しを命じられているのです。
そこで米を作り野菜を作るのが、心身ともに生きる糧となっている人々の土地が書類上は既に奪われたのです。
次は住んでいる家を奪われようとしているのです。
それを知っていて「差し迫った状況にない」と判断されたのかと、叫びたくなりました。
でも、長崎新聞の論説を読んで、少しだけクールダウンできました。
Unknown
長崎新聞の論説は正論だと思います。
なぜここまで石木ダム問題で、県に対しても司法の判断に対しても地方紙が正面から批判的に切り込んでいけるのか。それは石木ダム事業の欺瞞的な本質を長期にわたる取材の中で的確につかんでおり、自分たちの主張に間違いはないという確信があるからだと思います。
もし歴史の法廷があるなら、いずれ「やはり石木ダムは必要なかった」という判定が誰の目にも分かる形で確実に下されるでしょう。(私はすでに下されていると思っていますが)
しかし石木ダムを造ってしまってからそうなっても遅いのです。
司法には、歴史の法廷で「正しい判断だった」と評価される判断をしてもらいたいものです。
Unknown
全く同感です。
長崎新聞にとって長崎県は大事なスポンサーでもあるはずですが、批判すべきことはしっかり批判していますね。
それを可能にしているのは、フッチーさんの分析通り、蓄積された取材から得た自信と同時に、報道人としての誇りもあるでしょう。
この大事な自信と誇りを、裁判官の方々はどこに置き忘れてこられてのでしょうか?