一昨日15日(金)夕方、水道局のHPに、
「石木ダム建設事業の再評価における学識経験者等からの意見聴取について」がアップされ、
「この度、2回目の審議を下記のとおり行うこととなりましたので、お知らせします」とありますが、
なんと、その「下記」は存在せず、日時も場所もわかりませんでした・・
水道局の皆さん、よっぽどお疲れなのですね〜
お察しいたします。
でも、翌16日の新聞で確認できたからOKですよ。
場所は、JAながさき西海させぼホール、
日時は、2月21日午後1時〜です。
(※2月18日午後確認したら「記」が追加され、日時も場所も明記されていました)
今回は、前回承認された水需要予測に基づき、
14の代替案が示され、石木ダムとの比較検討をするようです。
同様の代替案検討は一昨年、国交省によるダム検証のときも実施され、
ダムが最有利と結論づけられました。
「同局は今回も『ダム建設が優位』との判断を示すとみられる」と記者は書いています。
そう。
もう結論は見え見えなんですよね。
それでも、傍聴に行きます。
見え見えの結論を生み出す過程を見ておくことも大切だと思うからです。
先日の市議会「石木ダム建設促進特別委員会」で、委員の中から、
傍聴者から批判の声が上がっていた。委員の自由な発言が阻害されるのではないか心配。
事務局としてしっかり対応して欲しい
との苦言が呈され、もしや、2回目以降は非公開になるのでは・・?
との懸念もほんの少し抱いていましたが、
さすがに、それはできなかったようです。
水道局の皆さんは、そんなに愚かな方々ではありませんから。
いえ、これはお世辞でもイヤミでもなく、本当にそう思っています。
いま、前回(5年前)の再評価の議事録を読んでいるのですが、たいへん面白いのです。
水道局が出してくる膨大な資料と、その難しい説明に対し、
一人の委員が率直に斬っていきます。
こんなものは素人である一般市民にはわからない、私にとっては無意味だ、
これは数字の遊びだ、ここでやってる議論は砂上の楼閣だ、等々。
なぜなら、反対地権者を説得するのは無理だから。
つまり実現性が無いから。
と断言します。
最後の取りまとめの時、
他の委員の多くも、
ダムの必要性は認めるけれども、可能性の問題も重要で、
この状態をだらだらと何年も続けることは考えなければならない。
例えば何年を目処にきちっと可能性を出すとか、ある段階で見直すとか、
そういうことも考えるべき
という方向に傾いていきました。
とても常識的で賢明なご意見だと思いました。
そして、最後に事務局=水道局は、委員に対し会議のお礼を言うとともに、
このような発言をしています。
事業者としましては可能性はあると思って事業を進めています。
ただ、私自身としましては、これを今までみたいに20年も30年も…
引っ張っていくのかと言われますと…
はい、続けていきますとは答えることができませんが、
じゃあ、いったいいつになったらそれを判断するのかと言われましても…
今の現状を考えますと、
今までのことを再度繰り返すということは出来ないであろうということは考えております。
こう語った方は、今は水道局にはおられませんが、
同じ思いの職員は、今も少なからずいらっしゃると思います。
どうぞ、思い出してください。
あれから5年がたったのです。
地権者の思いは、今も変わりません。
つまり可能性はゼロです。
知事や市長の意向に背けない立場にあるとしても、
水道事業のプロとして、責任者として、
水道局としての本当の再評価に取り組んでくださることを心から願っています。
南部水系下の原ダムかさ上げがベターですが。
佐世保市水道局職員の中には、南部水系下の原ダムのかさ上げが可能である、と思っていても、言えない立場なのです。それを言うと、村八分になるからです。つまり、長崎県知事、佐世保市長に対して言えません。それを言うと、どうなるかが解かっているからです。そうです。今までの政策が誤りだった、と認めることになるから、言えないのです。しかし、誤りに気付き、改善することが、人間の価値があるのです。その勇気や決断を、正しく判断しなければ、いけません。そういう人が、賢者です。しかし、解からない人は、愚者と言うことです。
南部水系下の原ダムかさ上げがベターですが。
佐世保市水道局職員の中には、南部水系下の原ダムのかさ上げが可能である、と思っていても、言えない立場なのです。それを言うと、村八分になるからです。つまり、長崎県知事、佐世保市長に対して言えません。それを言うと、どうなるかが解かっているからです。そうです。今までの政策が誤りだった、と認めることになるから、言えないのです。しかし、誤りに気付き、改善することが、人間の価値があるのです。その勇気や決断を、正しく判断しなければ、いけません。そういう人が、賢者です。しかし、解からない人は、愚者と言うことです。