今朝の長崎新聞。昨日の「阻止」行動2日目の様子が書かれています。
現場に行けない私には有難い記事です。
この日は県側は4回やって来たようです。
ダム事務所長は、「生活再建など対応できるものは対応したいので、道を空けてほしい」と言ったそうですが、
それで説得してるおつもりなのでしょうか?
地権者は生活再建の話など誰も望んではいない、ダムの必要性の話をしたいと思っている。
それは百もご承知のはずなのに・・何故そんな無意味な言葉をかけるのでしょう?
それでは説得にも交渉にもなりません。
道を空けてほしいとお願いするなら、相手のお願いもきくべきでしょう?
話し合いがしたいというただそれだけのお願いをどうしてきけないのでしょう?
新聞には出ていませんが、ある記者さんと企画監とのやり取りについて、仲間が教えてくれました。
こんな感じの会話だったそうです。
記者:この状況を打開するための一つとして知事が署名を受け取るなどの譲歩はできないんですか?
企画監:できなません。署名とこれは別でしょ。署名は土木部が受け取ります。
記者:別だけど、それじゃあ何も進まないのでは?
企画監:粘り強く説得します。
その説得が生活再建の話ですか?
言葉は丁寧でも思考は上から目線、自分たちの理屈や論理で推し進め、決して妥協しない…
決めるのは役人で、民はそれに従うしかないのだ、とでも思っているのでしょうか?
でも、納得できません。
知事宛の署名を、なぜ知事ではなく土木部に手渡さねばならないのか?
時間は取らせないと言ってるのに、なぜ知事は受け取ってくれないのか?
ダムに関する署名だから、ダムの管轄は土木部だからですか?
しかし、推進派の団体が陳情等に訪れると、必ず応接室で知事が直接会って文書を受け取ります。
例えば石木ダム建設促進川棚町民の会は、2012年10月5日と2014年8月12日、長崎県庁を訪れ、
石木ダム建設事業の早期着工・早期完成を求める要望書を中村知事に提出しています。
なぜですか?
なぜこの時は土木部ではないのですか?
同じダム問題で、同じ知事宛の文書なのに、なぜ反対派の場合は知事に会えないのですか?
マスコミの皆さんは不思議に思わないのでしょうか?
男として、「勇気ある決断」が欠如している
長崎県、つまりトップの県知事さんは、本当に、佐世保市民の生活を考えて、石木ダム建設事業を推進していますか。
佐世保市民は、石木ダム建設により、佐世保市民の水道料金は、一年間で、一世帯五千円の負担になります。
しかも、この先、三十年間支払いが続くことを、佐世保市水道局長の答弁で明らかにしました。
つまり、佐世保市民は、水道料金を長崎県が全額負担する、と勘違いしています。
だから、この水道料金を佐世保市民が、一括17万円支払わなければいけないことを、知れば、あなた方長崎県に対して、不満が増大するでしょう。
そんな高い水を飲まなくて良い、と思っているからです。
これから、佐世保市民の方たちに、石木ダム建設により、水道料金が高くなることを、知って頂く為に、街頭演説が必要ですので、反対の署名活動を推進して頂きたい、と思います。
もう、言うまでもありませんが、
長崎県知事さんは、メンツ、名誉、プライド、地位等のしがらみがあるので、「勇気ある決断」が欠如している、と感じます。
故松下幸之助さんは、「素直な心」を持たなければいけません、と生前言っていました。
論語に、子貢問いて曰く、「一言にしてもって終身、これを行うべきものありや」
子曰く、「それ恕(じょ)か。おのれの欲せざるところは、人に施すなかれ」
訳すれば、一言で言って、生涯何が大事なことですか、と子貢(しこう)が、孔子に尋ねました。
孔子は、それは、恕(じょ)と言うことです。つまり、自分がしたくないことを、人々にしたら駄目です。と言うことです。
恕(じょ)とは、思いやり、いつくしみです。
人間は、思いやりの心を持たなければ、いけません、と教えています。
しかし、この論語の意味が解らない人もいます。悲しい限りです。
長崎県は、今度、強行に出ます
このままの状態では、長崎県のプライドが許しません。
彼らは、プライドやメンツや、そして地位やしがらみ等がある為、今度は、強行に出て来ます。
反対派のリーダーは、考えが、甘い、と感じます。
こんなことをいつまでもやっているはずが、ありません。
彼らは、裁判で勝ったので、強行に推進して来るでしょう。
さう、どうしますか。リーダーさん。
人文や哲学や仏教や歴史等をないがしろにしているから、仕方ありません。