昨日は「川のシンポジウム2014」に参加してきました。
タイトルにあるように、九州の3つのダム問題にスポットを当て、
なぜ公共事業は走り出したら止まらないのか、
どうしたら河川をめぐる癒着構造を断ち切ることができるのか、
まさにそれを知りたくて・・・
五十嵐敬喜先生(法政大学名誉)の基調講演は、
公共事業をめぐる政・官・業・学の癒着構造の実態をあらためて痛感させられるものでした。
民主党政権下で内閣官房参与として官僚の実態を目の当たりにされてこられた先生のお話は、
生々しく具体的で、疑いの余地がありません。
「この国は公共事業という麻薬漬けになっている」
「オリンピック以降は日本全体が財政的に崖っぷちに立たされるだろう」
などの言葉に、予感が実感に変わるショックを覚えました。
では、どうしたら変われるのか?
政策を変更するには「立法」、法律を変えるしかない。
ダムで言えば河川法を変え、土地収用法を変えないと、誰が大臣になってもダム推進を止められない。
一方で知事の考えによって止められたダムもある。
田中元長野県知事、嘉田前滋賀県知事などの功績は大きい。
また、川辺川ダムを止めたのは地元市町村長などの意思が知事を動かした。
地元の声、世論、議会が首長を動かす。
つまり、現在の負の連鎖を断ち切るために私たち市民ができることは、
世論を盛り上げ、「選挙に勝つ」こと。
ダム推進ではなく「中立な市・町長を選ぶ」ことと力説されました。
基調講演の後は、3つのダムについて、現地からの報告です。
はじめは熊本県営「路木ダム」について、路木ダム裁判原告団長の植村振作さんのお話を聞きました。
路木ダムの不要性は明らかで、治水としての理由づけのために虚偽の報告を明記するなど、
やると決めた公共事業を達成するには何でも有りき、まさに麻薬中毒患者そのものです。
続いて、同じく熊本県の国営「立野ダム」について、
「立野ダムによらない自然と生活を守る会」事務局長の緒方紀郎さんのお話です。
問題点がパワーポイントにしっかりまとめられ、説明もたいへんわかりやすいもので、
立野ダムは不要というよりも、「こんなの造ったらいかんやろ〜」と実感させられました。
最後に控えし「石木ダム」については、石木ダム建設絶対反対同盟の石丸さんが話してくださいましたが、聴くことに集中していたあまり(身内意識でハラハラドキドキ?)、写真を撮り損ねてしまいました。 ごめんなさい!
休憩を挟んで後半は、パネルディスカッション。
ここでも世論を広げることの大切さと難しさが語り合われました。
その中で特に印象深かったのは、「子守唄の里・五木を育む清流川辺川を守る県民の会」の中島康さんの言葉。
「住民運動はまだまだ幼く甘い。正義が必ず勝つと思っている」
「川辺川ダムで勝ったのは、球磨川流域には古代から続く河川文化があったから」
なるほど。深いな〜と思いました。
熊本県内のダム反対運動が全国一と言ってもいいほどの実力を持っている理由が、やっとわかりました。
そして、その皆さんが、自分たちの路木ダムや立野ダムだけでなく、他県の問題である私たち石木ダムのことも真剣に考え支えようとしてくださっていることを、この後知ることとなりました。
それは、閉会挨拶の場面でした。
その役目を担っていた私は、石木ダム関係者の皆さんに前に出てきてもらい、闘い続ける決意の言葉を一言ずつ頂く予定でした。
それを提案してくださったのは、当シンポジウム事務局長のTさんでした。
3つのダム問題を考えるシンポなのに、石木ダムだけ特別扱いするのは司会者としては気が引けるし、そもそも、来月福岡地裁でおこなわれる路木ダム裁判に向けての世論作りが目的だったはず…
それではあまりにも申し訳ないと一旦は辞退したのですが、
「そんなことはない、石木ダムは今が一番大事な時、遠慮しないでください」と言われ、
その提案を有難く受け入れることにしたのです。
しかし、閉会の時間が迫っていましたので、一人一人言葉をもらう時間もないし、
全員前に出てきていただく時間ももったいないと思った私は、
「石木ダム関係者の皆さん、地権者と支援者の皆さん、全員その場でお立ち下さい」と言いました。
するとTさんが飛んできて、「いや、だめだ、前に出てもらって!」と言うのです。
驚きつつも慌てて訂正し、急ぐよう促すと、皆さんもすぐに出て来てくれました。
そこでTさんは用意していた手作りの横断幕(A4の用紙に1文字ずつ書き込んだもの2つ)を皆さんに持たせてくださいました。
あまりにも思いがけない行為に一瞬驚き、
次に反省し(私が用意すべきことでした)、
そして、胸が熱くなりました。
このシンポジウムの総指揮官として、ここ2,3日はきっと寝る間もないほどお忙しかったはず。
そんな中で用意して下さった横断幕。。
今日、私が一番学ばせてもらったことは、
ダムを止める理論やノウハウよりも、「支え合う思い」の大切さでした。