川は生命の生活の場

毎日新聞秋田版に素晴らしい記事が出ていましたので、ご紹介します。

3月2日「人」の欄に紹介された成瀬ダム訴訟原告団の高橋佳紀さん。

高橋さんの思いがじんわり、ずんずん伝わってきます。

 

◇川は生命の生活の場

 皆瀬川と成瀬川の合流点近くの熊渕集落に生まれ育った。2本の清流。水辺のある暮らし。幼い頃から小魚を取ったりして遊んだ。自然とは何か−−。川はそれを、教えてくれたのだと思う。

 皆瀬ダムが完成したのは1963(昭和38)年。その後もずっと漁を続けているが、ダムが完成する前と後では取れる魚の種類が変わったと感じる。以前はあまり見かけなかった魚や下流域に生息する魚が目に付くようになった。河川水をいったんダムでせき止め放流するため、水温が上がり河川環境が変わってしまったのではないかと危惧する。

 皆瀬川は、雨が降ると1週間ほど濁るようになった。それに対して、ダムがない成瀬川は濁らない。川の“清濁”は皆瀬川と成瀬川で明らかに違う。皆瀬川のアユは泥臭い味になり、アユ漁はやめた。アユ漁はもっぱら成瀬川でしている。

 農業用水と洪水調節、水道用水、発電などを目的にする多目的ダム・成瀬ダムは、なぜ必要なのだろう。雄物川水系の大規模治水事業として国が巨大ダム群の計画を打ち上げたのは74年のことだ。

 あれから40年。高度経済成長はとうに終えんした。有識者らでつくる日本創成会議は、県内各自治体の若年女性の人口減少率は2040年に、大潟村以外は50%以上となり「消滅可能性都市」になると推計した。稲作農家の多くは高齢化し、さらに廃農も増えると予測される中で、成瀬ダムの“恩恵”を受けるとされる下流域の自治体全てが「消滅」する−−。

 「時代は変わったのに、巨大公共事業は走り出したら止まらない」。事業中止を求める訴訟の原告団に加わった。提訴から6年近く。さまざまな用途を掲げてダム建設の正当性を強調する事業者側の主張を幾度も聞いてきたが、いまだに理解できない。秋田地裁の判決言い渡しは27日だ。

 雄大な自然に包まれ悠久の時を刻む清流・成瀬川。自然とは、山とは、川とは、いったい誰のものなのだろう。

 答えは分かっている。「あらゆる生命(いのち)の生活の場であり、共有の財産。人間が“私(わたくし)”(私有)できるものではなく、“私”は、人間の傲慢である」と。【佐藤伸】

 

子どもの頃から2つの清流を見てきた高橋さん。川で遊び、川で育ち、川で学んできた。

ダムができた川は濁り、ダムのない川はきれいなまま。

濁った川ではアユ漁はできなくなった。

巨大ダム計画ができて40年。

時代は変わったのに走り出した公共事業は止まらない。

川は誰のもの?

みんなのもの。あらゆる生命の生活の場。

人間が私有できるものではない。

 

全く同感です。

その思いを共有し、広げていきたいですね〜