無垢なるものを壊すな

田中優さんのメルマガに登録しました。

つい最近のNo.470の記事にこんなことが書かれていました。

 

無垢なるもの、穢れなきものを人間が壊してしまっている。

福ちゃんは、それが残念で仕方ないのだ。   

科学的に言えば、これは上流のダムや堰で水を止めてしまうせいだろう。

水は流れていなければ腐る。腐るというのは微生物が大量に発生することだ。

その微生物は瀬(流れの早い浅いところ)では暮らせないが、

少しでも水が緩やかになればそこに棲みつく。それが石のぬめりを作るのだろう。

今よりたくさんの人が住んでいても、かつての川は無垢なる流れを続けていたのだ。

 

無垢なるものを壊すな、これが優さんの願いです。

とても素敵なメッセージだったので、全文を転載させて頂きます。

あ、心配ご無用。

優さんのメルマガは「転送転載、大歓迎」なのです。

心の広〜い方なのです。

 

                優さんメルマガ 第470号  2015.9.28発行

 

『原点ってなんだろう?』   

   

■生き物の居場所   

 

ふと思った。ぼくの活動の動機は何なのだろうと。

 

理不尽なことがまかり通るのは許せない。そうした正義感はある。でもそれは正義感で

あって環境を守ろうとする活動の動機とは直接つながらない。    

 

なんでなのか、考えていくと自分の過去に遡っていく感じがする。ほんの幼い頃に味わ

った、不思議な匂いのする記憶だ。春先の森の中、なんだかうずうずするような匂い…

夏の森の甘ったるい匂いアゲハチョウの幼虫の発するいやな匂い…。それらが混然一体

となった記憶だ。   

 

ぼくはそこに生命を感じていた。だから自分が弱ってしまった時には森や川、山に入る

ことで自分の生命力を回復していた。

 

 

そこにいれば自分があるがままにいられる気がした。何が起ころうと自分はたった一つ

の生命に過ぎないし、だから自分のままで生きればいいと。観光地の写真になったよう

な風景は嫌いだ。看板通りで自由のない場所には生命を感じられないからかもしれない。

 

 

それとは逆に、誰も目を向けない風景に美しさを感じる。特に生き物たちの視点に立つ

と、その小さな場所に永遠を感じるほどの豊かさが見える。川の瀬と淵にはそれぞれ異

なった魚が集まり、石の下には小さなざざ虫たちが棲んでいる。森の木々は光を奪い合

い、より強い光を求めたり、弱い光に順応したりする。    

 

 

あるとき大人たちの釣りにつきあって川に行った。大人たちはちっとも釣れず、その日

最大の魚を採ったのはぼくの網だった。 「この子は魚の居場所がわかるんだな」と言わ

れた。当たり前のことなのに。

 

 

■色とりどりの石    

 

ぼくの生命は自然の一部だ。そう感じるから静かでいられる。   

 

それなのにその自然を壊そうとする人たちがたくさんいることがよくわからない。

大きくなってやっとおカネのためなのだと知った。

でも未だに自分の足元を掘り崩してしまうような行為を繰り返して平然としていられる

理由がわからない。もしかしたらそうした人たちは、自然の一部という感覚を持たない

のかもしれないなとは思う。    

 

 

でもなんでそうした人たちは生き続けられるのだろう。

意味のない生命になってしまうと危惧するのだ。     

 

 

今年も出かけた岐阜の板取川上流の川浦(かおれ)渓谷で、友人の福ちゃんが沢登りの

途中で言った。  

 

 

「キャンプ場のあるあたりだと、石はみんな苔がついてしまって茶色しとるやろ。

昔はこの沢みたいにみんな色とりどりで、

その中の白い石を拾って淵(深くなっているところ)に投げて、

潜水して拾って競ったんや。そうやって泳ぎを覚えたんや。

ここの石は全部色とりどりだけど、これが下流までずっとそうだったんや」    

 

 

その言葉は気持ちに突き刺さるようだった。無垢なるもの、穢れなきものを人間が壊し

てしまっている。福ちゃんは、それが残念で仕方ないのだ。   

 

科学的に言えば、これは上流のダムや堰で水を止めてしまうせいだろう。水は流れてい

なければ腐る。腐るというのは微生物が大量に発生することだ。その微生物は瀬(流れ

の早い浅いところ)では暮らせないが、少しでも水が緩やかになればそこに棲みつく。

それが石のぬめりを作るのだろう。今よりたくさんの人が住んでいても、かつての川は

無垢なる流れを続けていたのだ。

 

 

 

■無垢なるものを壊すな    

 

 

ぼくが活動する原点はここにあるのだと思う。無垢なるものを汚したり壊したりするの

が嫌なのだ。そうだとすると、この感触を味わったことのある人でなければ、この破壊

を止めようとはしないだろう。それに慄然とする。     

 

 

もう手遅れかもしれないからだ。

無垢なるものに対する畏敬の念がなければ、自分の生命が自然と一体化する感触がなけ

れば、自然はただのでくのぼうで、邪魔者に過ぎなくなってしまうかもしれない。そこ

に生きている生物たちの側から見なければ、全体でひとつになる生態系の美しさは知る

ことができない。   

 

「この子は魚の居場所がわかるんだな」と言った大人たちは、もしかしたら知らないの

かもしれない。生命がびっしり詰まった曼荼羅のようなこの世界を。

 

 

経済なんて意味がない。ましてカネなんか使い方次第で悪の根源になる。どんなにカネ

が儲かろうが、経済的利益があろうが、人間には壊してはいけないものがある。

 

ぼくにとって自然エネルギーの進展や省エネ技術の発展に期待する理由は、その問題を

解決できる方法のひとつだからだ。ぼくらがもう一度慎ましく生きれば、かつてたくさ

んの人が住んでいた地域なのに川も山も壊さずに生きられた時代に戻れるかもしれない。    

 

 

板取の山は一見豊かに見えるが、奥地以外の森は一度は壊された森で、戦後の拡大造林

計画で植林されたものばかりだ。植林以前をイメージしてみると、森はひどく破壊され

ていた時期があることがわかる。   

 

その証拠に森の中のマツが枯れ始めている。マツは火山噴火のあとのような荒れ地に真っ

先に生えてくる。そして豊かな土になって他の木が育つようになると枯れていくのだ。

そのマツの寿命は長くないし、育ち具合から見ても百年と経たないように見えるから、

その時期に荒れ地になった時期があったのだと思う。    

 

 

それは二つのことを教えてくれる。  

 

ひとつは敗戦からわずか70年で森はかなり回復するということだ。それなら今からでも

自然を回復させることはできるかもしれない。   

 

そしてもうひとつは、資源浪費の最たるものこそが戦争だったということだ。

戦時中にはマツからヤニを採取して、飛行機の燃料にしようとした時期すらあった。

実際には成功しなかったようだが、各地のマツにはマツヤニが採取された跡が残されて

いる。 

 

戦争は人にとって有害なだけでないのだ。 生命そのものを支える自然を、これ以上壊

さないでほしい。

 

この思いがぼくの原点にある。原点に忠実に生きたいと思う。    

それがぼくが生かされている理由でもあると思うからだ。

 

 

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